東京高等裁判所 昭和41年(う)2462号 判決
被告人 阿部一夫
〔抄 録〕
一、所論は原判決の量刑不当を主張するものであるが、その前提として原判決には事実の誤認があるとしてまず、被告人の本件犯行は計画的でなく偶発的であつて原判決が被告人があらかじめ庖丁を所持しており、本件犯行が半ば計画的に行われたと認定しているのは事実の誤認であるというのである。
そこで原判決及び記録を調査するに、原判決はその法令の適用の部において本件犯行は半ば計画的なものであると判示し、弁護人の主張に対する判断の部において被害者の司法警察員、検察官に対する供述調書、被告人の司法警察員に対する供述調書によれば被告人があらかじめ庖丁を所持していたものと認められると判示してその根拠を示しているのであるが、原審において取り調べた各証拠のうち吉沢利生の検察官に対する供述調書、同人の原審公判における証人としての供述調書、司法巡査谷鉄三、同広川康公作成の現行犯人逮捕手続書、司法警察員森本三夫作成の捜査報告書、坂脇義正、林孝生の司法警察員に対する供述調書並びに被告人の原審公判における供述を綜合すれば、被告人が被害者の出現を予期していたことおよび被告人が被害者の出現前に同人に傷害を加える意図を有しその準備として庖丁を所持していたことは認め難く、かえつて吉沢利生が被告人の居た坂脇義正の部屋に現われて謝罪するや、被告人は激情に駆られ、同人に暴行を加えようとして襲いかかり、逃げる同人を追いかけて勝手場附近廊下で追いつき、たまたま勝手場にあつた庖丁を見つけ突嗟にこれを持ち出し、同所で被害者に切りつけたものと認められる。それ故被告人の本件犯行は全く計画的なものではなく偶発的なものというべきであつて、この点原判決を誤認したものであり、その誤認は本件においては判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、この点の論旨は理由があり、原判決は破棄を免かれない。
二、所論はつぎに、被告人の本件犯罪事実の告知は刑法第四二条第一項の自首にあたる、しかるに原判決がこれを自首にあたらないと判示したのは事実を誤認して法律の適用を誤つた違法があるというのである。
そこで原判決をみるに、原判決は自首の有無について検討し、司法巡査作成の現行犯人逮捕手続書その他の各証拠によつて認められる被告人の本件逮捕に至るまでの経緯によれば、被告人は本件犯行後自ら板橋区仲町所在の中板橋派出所附近に赴いたことは認められるが、被告人は本件犯罪事実について捜査機関に告知したのは右証拠によれば被告人の挙動不審を見とがめた司法巡査の職務質問とこれに続く取調べによるものであると認められ、未だもつて刑法第四二条第一項所定の自首に該当しないものと認めるのを相当とすると判示している。
ところで自首とは犯人が進んで捜査官憲に対して自己の犯罪事実を告知してその処分を求める意思表示をすることであると解するを相当とするところ、前記現行犯人逮捕手続書には「昭和四一年七月二日午前〇時四〇分ころ本職中板橋派出所見張勤務中、二二、三才位水色オープンシヤツにネヅミ色ズボンをはいた男が雨が強く降つているのに傘もささずに雨にぬれ、よたよたと派出所前にきたので、不審に思いその男に「どうしたこんなに遅く」と職務質問した。するとその男は「いま人を切つてきた」というので派出所内に入れて取調べた云々」の記載があり、また坂脇義正の司法警察員に対する供述調書には「吉沢さんは廊下に点々と血を落しながら表に逃げ出して行つたのです、このあとで阿部さんは一寸ボンヤリしたらしいがすぐ表の方に出て行つたので私はあとからつけて行つたら雨の中を傘もささずに二〇〇米位はなれた交番の方に向つて行つたので私もあとから行くと阿部さんは交番内でお巡さんに何か話しているところでした云々」の記載があること、これらと被告人の原審公判廷における「自分は腰が抜けたみたいになつてしまい、よく歩けなかつたのですが、大変なことをしたと思い、自首するため交番の方に行つた云々」の旨の供述を綜合すると被告人は派出所の前まで行つたところ見張勤務中の司法巡査から挙動不審を咎められ、右のような職務質問を受けるやすぐに進んで自己の犯罪事実を申告したものであつて、右司法巡査から犯罪を行つたことの疑いをかけられその取調べを受けてはじめて本件犯罪事実を告知したものとは認めがたいし、被告人の右犯罪事実の申告は本件犯行直後であつて、当時右司法巡査においては未だ全くその犯罪事実を知らなかつたことが窺われ、かつ被告人は自首するつもりで派出所に赴いたことが認められるから、被告人の右行為は自首にあたるものというべきである。
それ故原判決が被告人の右行為を前記のように認定し自首にあたらないと判断したのは事実を誤認したものである。自首は法律上の減軽事由ではなく、裁量上の減軽事由ではあるが、本件の場合右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、刑事訴訟法第三八二条の事実誤認にあたるものと解すべく、原判決はこの点においても破棄を免れない。
(久永 井波 宮後)